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子供は分かっているようで分かっていない

算数の授業のことです。

コンパスだけで正六角形をかき、どうして正三角形ができるのかといったことが話題になりました。

しばらく考える時間を取った後に全体で考えることになりました。すると、「三角形の2つの辺は円の半径だから同じ長さ。もう1つの辺も同じ長さになるようにコンパスでかいたから正三角形になる」とのこと。とても分かりやすい説明です。理解を確実にするために、1度ペアの子と今聞いたことを確認させました。多くの子が一斉に話し始めたので、分かっているのかなと思い、何人かを指名しました。

一斉に話し始めたので分かったのかなと思いましたが、話してごらんといってみると難しいと言います。じゃあ、他の子に言ってもらおうということになり、何人か話してくれましたが、分かっているんだか分かっていないんだか、といった説明でした。

ここでようやく、子供たちは思ったよりも分かっていないんだなと理解しました。大人が分かりやすいといった説明でも、そもそも聞いていなかったり、もともとその子自身が考えていたことに引っ張られて間違った解釈をしてしまったりします。

途中で区切りながら確認したり、あえて教師が間違った解釈をしたりして、ゆっくり理解が進むようにしないといけなかったなと、反省しました。

今日の授業で偉かったのは、何人もの友達が説明しても、分かるまでは絶対に首を縦に振らなかった子供です。「分かったふりをしないで、分かるまで何度も聞き直したあなたは偉い。きっと、あなたが聞き直してくれたから分かったという友達もいるはずだよ。」と大きく褒めて価値付けました。

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算数 正多角形の導入

正多角形の導入の授業をしました。流れはしましたが、山場が上手に作れなかった授業でした。

正多角形とそうでない図形(辺の長さは等しいが角の大きさが違う。またはその逆。線対称、点対称などきれいに見える図形)をいくつか提示し、くじを引かせました。このくじは、正多角形が当たりのくじです。当たりの形はどんな形かなと考えることを通して、正多角形とはどんな形なのかを考えることを想定しています。

反省したのは、すぐに見分けることができた子と、悩む子が一気に差が開いたことです。図形を一気に見せてしまったことで、分かる子はすぐに正多角形の特徴をノートに書いていました。

もし、図形を出すのを少しにしていたら、一気に差が開くことはなかったでしょう。悩んでいた子も、見る図形が限られることで、何に注目したら良いかが分かるでしょう。また、上位の子も、与えられた条件が少ないので、迷いが生まれるでしょう。そういった迷いを共有することで、みんなで学びを進めることができたと思います。もしかしたら、「こんな図形があったら…」と、自分で図形を作る子が出てくるかもしれません。

教材の出し方1つでもまだまだ工夫できるなと反省しました。

一人一人を見れたか振り返る

最近、毎朝黒板に7、8人の良かったことを書いている。名前の偏りが出ないように、書いた子の名前を名簿でチェックする。

すると、あまり見れていないなという子がいることに気付く。下手すると、あれ?この子と今日話したっけ?と不安になる子も。

やはり、名簿を使って全員を見ることができているかチェックすることは大切。全員を見よう、関わろう、良いところを見つけようと意識していても、できたかどうか振り返らないといけない。思ったよりも見れていないことが多いと思う。

また、自分の関わり方には癖がある。手がかかる子は自然と関わることが増えるが、消極的な子は意外と見れていなかった。

名簿でチェックが付かなかった子を今日は重点的に見た。すると、気が付かなかった良いところがたくさんあった。

友達の少しずれてしまった机をさっと直す。友達と何か一緒に見るときには、相手が見やすい向きで物を置く。手紙を回すときに両手で相手の目を見て渡す。

そういったことに気付けていなかったことに反省した。ただ見よう、褒めようと思うだけではダメ。一人一人を見ることができたかどうか、振り返り、次に生かすことが大切。

学ばせたいことが学びたいことにならなかった

課題がシンプルではなかった。

子供に考えさせたい方向に追い込もうという思いが大きすぎて、課題を出すまでの発問が多かった。結果、子供の気持ちが離れていった。

導入はシンプルに。

そして、子供の反応にしっかり付き合う。

子供の発言を繋ぐ板書

今日は、子供の発言を繋ぐことを意識して板書をしてみた。

日本は震災が多いのにも関わらず、震災の死者数が少ない理由を考えていた。

ある子が「東京に人が集まっているから。」と発言。東京が首都なのは、震災が少ないからだと考え、その震災が少ない(あくまでも予想)東京に人が集まっているから、死者数が少ないという。

それに対して「関係ないんじゃない。」との発言。

それを矢印でつなぎ、板書する。

すると、「人が多いから避難所も多いんじゃない。」との発言。

これも、最初の子の発言に矢印で繋げる。

すると、「でも、人が多いとビルとか看板が多いから、逆に多いんじゃない。」との意見が。

これは、最初の子の発言と向かい合う矢印で反対であることを示しながら繋ぐ。

すると、「だからこそ、耐震とかいろいろやってんじゃない。」と発言。

さっきの子の発言と矢印で繋げて板書する。

少し、矢印で複雑になってしまったが、話の流れが分かる板書にすることができた。

子供は前に発言した子に触発されながら発言していると感じた。だから、その繋がりを視覚化すると、聞いている子も繋がりを理解し、授業に着いてくることができる。

反省したのは、もっと子供のノートに書いてあることを把握しておけば良かったということ。把握できていれば、繋がることを書いている子の背中を押すことができた。

朝の黒板

毎朝子供たちを迎える教室

黒板に前日の子供たちの様子の中で、良かったところを書き出す。

(全員を褒めることができるように、書いた子は名簿で整理しておく。)

そして、写真に撮っておく。

3つの良いことがある

  1. 子供を良く見ることになる
  2. 子供の自己肯定感を高める
  3. 所見の材料になる

山場のない授業

国語の複合語の授業を失敗した。

するする流れてはいったし、子供もしっかり反応して着いてきた。一人一人が学習課題に正答を導くことができた。

でも、授業に山場がなかった。だから、きっと時間が経ったら何をやったのか忘れている。明日テストしたらできるだろうけど、1ヶ月も経てば忘れているにちがいない。

なぜ、山場がなかったのか。それは、学ばせたいことの中心がはっきりしていなかったから。扱う複数の内容に軽重を付けなかったから。教科書に書かれていることを見て、それをそのまま全て扱ってしまった。

やはり、教えることは1つにする。他の内容は簡単に触れるくらいにする。その方が結果として子供たちの頭に残る。

教える時間と自由に活動する時間

5年の算数の統計の学習でのこと

単元末は、統計の考えを使って、実際の問題を解決する。そのために、グラフの読み取り方や書き方などを単元の前半で学習する。

本当は、毎回実生活と結び付くような実践がしたいけど、なかなか難しい。

単元の前半は子供の自由度が少なかった反動か、子供たちは生き生きとしている。

子供たちと決めた課題は、「もし、このクラスで旅行に行くならどこに行くか」

グループごとにどんなデータを取るのかを考え 、Googleformを使ってアンケートを作成する。

行きたい地方を聞いたり、旅行で何をしたいか聞いたり、お金をかけたいか節約したいか聞いたり、移動手段は何にしたいか聞いたり。

子供によっては地図帳を取り出して、観光地を調べている。ある子達は、国語で学んだ『まだ分からないよね』を生かして、「○○も聞いた方が良いよね」と発想を広げている。

教えることはしっかり教える時間と、実際の生活と結び付け、大枠を決めたら後は自由に活動させる時間。単元の中でバランスを見て組み合わせても良いのかなと感じました。

think like a monk

think like a monk

昨年読んだ本の中でも、指折りの素晴らしい本です。

『think like a monk』(ジェイ・シェティ著、浦谷計子訳、東洋経済新報社、2021)を紹介します。この本は、仏教の僧侶がどのような修行を行い、どのような考え方をもっているのかが書かれています。私が読んで、特に心に残った3点を紹介します。

1 自分のダルマを生きる

「ダルマ」は聞き慣れない言葉だと思います。ダルマは仏教の用語です。この本では次のように紹介されています。

人にはそれぞれ、その人が一番輝ける分野の決め手となる、精神的・身体的性質が生まれながらに備わっている。ダルマとは、その生来の傾向、得意分野、埼大のポテンシャルを他者のために活用することだ。ダルマは、プロセス全体が楽しいうえ、巧みにこなすことがてきるから、情熱を感じずにはいられない。それに、他者からポジティブな反応が返ってくるので、自分の情熱に目的を感じることもできる。そんなダルマを魔法の方程式にすることができる。

 情熱 + 専門的能力 + 有用性 = ダルマ(前掲書、p.195)

ここを読み、私は「有用性」の視点が抜けていたなと感じました。私は本が好きです。読書をして、その本から学んだことをノートにまとめています。本を読んで考えることは、私の「情熱」と「専門的能力」に合ったことだと思います。しかし、それを誰かのために役立てるという視点が欠けていました。

そこで、どうすれば読書したことを人のために役立てることができるのか考えてみました。まず初めに思い付いたのは、子供たちに伝えるということです。もちろん、子供向けの本ではないので、そのまま本を紹介することはできません。ただ、本の一部分を子供に合わせた表現に噛み砕いて伝えることはできます。例えば、朝の会のときに少し話したらどうでしょう? 伝える内容をA4一枚にまとめ、教室の掲示物としてはどうでしょう?

このように考えてみて、人の役に立とうと考えることの良さに気付きました。それは、役立てようという視点が増えると、その行動がさらに楽しくなるということです。本を読みながら、子供たちの顔が浮かび、「どんな反応するかな? どんな風に伝えようかな?」とわくわくしてきました。行動に前向きな目的が加わり、より情熱を傾けることができるようになります。

みなさんの仕事は、自分の情熱、専門的能力に見合っていますか?また、好きなことは人の役に立てることができるでしょうか?ダルマのために転職をする必要はありません。どんなことも、工夫すれば誰かのために役に立てると思います。自分のダルマは何なのかと自問自答してみてください。

2 エゴに気を付ける

誰かを見て、「自分はその人よりも優れている」と人を見下してしまう経験は誰もがあると思います。そんなときのことについて、次のように書かれていました。

誰かの地位や価値が自分より劣っていると感じたら、自分を振り返ろう。そんなふうに感じなければならないほど、自分のエゴが脅かされているのはなぜなのか。(前掲書、p.338)

ここを読み、私はどうだろうかと振り返ってみました。

私は、人から否定されるなど、「大事にされていない」と感じるときに、その人のあらを探してしまうところがあると思います。相手を否定することで、揺らいだ自尊心を立て直そうとしているのです。

では、なぜ私は人から大事にされていないと感じると自尊心が揺らいでしまうのでしょうか。それは、人の価値を相対的に捉えてしまっているからだと思います。学生のとき、テストの点数が平均より高いか低いかや学年順位でで一喜一憂していました。でも、それは人と比べた相対的な価値であって、何があっても揺らぐことのない絶対的なものではありません。

人には優劣はありません。誰もが完全ではない。そう捉えることができれば、自尊心が揺らぐことはありません。どんな自分も受け入れることができます。言葉では分かっていても、きっと心の底から理解することができていないのでしょう。だから、人を見下す心が覗いてきてしまうのでしょう。

人を否定してしまいたくなったとき、「誰もが完全ではない」と思い出そうと思いました。他者を受け入れることができるから、不完全な自分も受け入れることができます。

3 感謝する。そして、奉仕する。

この本の中で、次のように書かれているところがありました

僕らが一時的なものにしがみついていると、そのしがみついているものが僕らを支配し始めて、痛みと恐怖の原因になる。一方、僕らが、この世のすべてははかないものだということを受け入れれば、一時的にでもその恩恵に与れていることのありがたみを実感できるようになる。(前掲書、p.128)

生まれた環境、与えられ能力、そのどれもたまたま運良かっただけのことだと思います。素晴らしい本に出会えたことも、その本の作者や出版社、そして、本好きに育ててくれた親のおかげです。この平和な日本で毎日楽しく過ごすことができているのはとても幸せなことです。

このように考えると、心の中に「誰かの役に立ちたい」という思いが芽生えてきました。きっとダルマの有用性に当たるところだと思いました。私にできることは何でしょうか? 教師として、どんなことを子供たちに伝えられるでしょうか。そう考えると、日々の仕事が楽しみなものになってきます。

まとめ 

この本からは、自分のダルマを生きること、エゴに気を付けること、そして、感謝し、奉仕することを学びました。これを読んだ人が『Think like a monk』を読み、心穏やかに毎日を過ごされることを願っています。

親切を支える優しい心に気付く

私の妻はよく家を掃除しています。隙間時間があればクイックルワイパー片手に床を拭いています。

いつもはそんな妻の姿を見て、私も何か家事をやろうと仕事を見つけてやっています。

今日はふとその妻の姿を思い出し、「なぜ、よく掃除をしてくれるのだろう」と考えてみました。もともと妻は喘息もちで、埃が大敵というのもあるでしょう。しかし、それだけであれば、私の部屋まで掃除してくれる理由にはなりません。きっと(本人には確認していませんが)、私たちの生活をより良くしたいという思いがあるのではないでしょうか。このことに気付いたとき、私は恥ずかしくなりました。

私は「妻が家事をしているときは自分も家事をする」と自分ルールを決めていました。そして、家事をする自分を誇らしく感じていました。しかし、そこには一般的な男性と比べて家事をしているという厭らしい優越感がありました。

妻は私たちの生活を良くしようと家事をしてくれている。このことに気付くと、今までの自分を恥じるとともに、「妻のために何かしたい」という気持ちが私の心の中に生まれてきました。

早速私は掃除や明日のお弁当の準備など、できる家事を始めました。私の心の中にはとても暖かい気持ちがあり、喜びを感じながら家事をすることができました。

ここから学んだことは、人に親切にしてもらったら、「なぜ?」と一度立ち止まって考えることが大切であるということです。きっと、気付かないところでたくさんの親切を、そして、たくさんの暖かい気持ちを受け取っていると思います。そんな優しさに気付くことができれば、心の中には「優しさを返そう。」という思いが湧いてきます。